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たいくつな電車の中でもだいじょうぶ。どこでも読める短めコラム
アモルの持ち方もくじ

幽霊社員

ある雑居ビルのふだんは使われていない会社名義の事務所の一室。机と椅子と電話以外、何も置かれていない部屋の留守番を命じられた。

「なお、君がその部屋に常駐していることは他の社員には言わないでくれ」

どうやら、このリストラ部屋の存在は一般社員には秘密らしい。



「失礼しまーす」明るい声が聞こえた。

「はい。どうぞ」と俺がいって振り向いたとき、すでにその女性は事務所の中にいた。

「オフィースのコーヒーサービスのご案内をしております」

絵に描いたような飛び込み営業。まず自らの社名と氏名を名のるべきところ、いきなり用件だ。



「ごらんの通り、さっき買ってきて、いま飲んでいます」

目の前のインスタントコーヒーのビンを指差しながら俺は言った。



「間に合っています」というこちらの言外のメッセージは届かず、営業トークは続く。

「私どもは、みなさまのオフィスにコーヒーメーカーを置かせていただいて、コーヒー豆を定期的にお届けするというサービスをさせていただいております。種類は、お好みに応じて何種類かご用意してあり、モカ、コロンビア、ブルーマウンテン、ブレンドなど、お好きなものをお選びいただけます。いまなら、サービスとしてお試しいただけ………」

「あのう、せっかくですが、私は存在しないのです」

「はぁ?」

「かといって、幽霊とかそういう類のものではありません」

「???」

「正確にいえば、こうして実体としては存在するのですが、会社的にはこの部屋に存在していないのです」

「???」

「したがって、そうしたサービスなどの契約書類に私の名前を書くことはできないのです」

普通の神経なら、こういう面倒くさい人間とは話をする気が失せて、すぐに退散するはずだ。



「……。なんか……、マトリックスみたいな話ですね。ふふ」

「見ましたか。ははは、……」和んでいる場合ではない。



「たとえば、そのコーヒーメーカーをもって私がどこかに消えちゃったとしましょう」

「はぁ……」

「そうすると、あなたあるいは、あなたの会社の人は、まずこの事務所に連絡をとろうとするでしょう。しかし、たとえ電話したとしても、『うちの事務所にはそんな人間はいない』って言われちゃうんですよ。なにしろ、はじめから存在していないんですから。つまり、電話に出た人間は、私がこの部屋にいたことを知らない……」



「あなたは、ここの会社の社員のかたなんですよね?」

「いかにも。でもここにいるはずがない。ということになっているんです。秘密指令でここにいる。とでもいうべきかな……。だから、あなたは、コーヒーサービスの契約書に私の署名をもらうことはできないんです。わかっていただけましたか?」

「いえ違うんです。会社は関係ないんです。個人で契約していただくんですよ。他の会社さんでも、みなさん個人で契約されています」ええっ?意外な展開。



「ほほう。なるほど。社員が小銭を集めて、コーヒー豆を共同購入する。みたいなあれですね」

「はい。今回お申し込みいただけるのでしたら、そのインスタントコーヒー分くらいはコーヒー豆を無料でお付けしますよ……」



1週間で飲み終わってしまうくらいの一番小さいやつを買っていたことに少し後悔したが、気を取り直して言った。

「ちょっと待ってください。そういわれても、私は、この銘柄のインスタントコーヒーをこよなく愛し、30年以上飲み続けてきたのです。いまさら、変更するつもりはないんですよ。たとえタダでもね。ふふふ。それに、そうした個人が契約した設備機械を会社のスペースに勝手に設置することは『法的にも』できないはずです。さらに付け加えれば、そもそもあなたがこの事務所に訪問し、そこの社員らしき男性に商品説明をした後に断られた。などと、営業日報かなんかに書いたりしてもいけません。そもそも、私は存在しないことになっているのですから……」

普通の神経なら、こういう人間とは関わり合いたくないと思い、すぐに部屋を出ていくはずだが、話は続いた。



「普段この事務所には何名くらいのかたがいらっしゃるのですか?」

「わかりません。なぜなら私は今日はじめてここに来ているのです。たまにあと一人来ているようですが」

「その方は、コーヒーがお好きなんですか」

「いやぁ、その人とは面識がないので、コーヒー好きかどうかまではわかりませんねぇ」



まだ終わらない。

「今後、この事務所で仕事をする人が増える可能性はありますか?」

「さぁ、何しろ私は存在していないのでそうしたことはわかりませんねぇ」

「次にこのエリアを営業させていただくのは半年後なんですが、あなたは半年後もまだここにいらっしゃいますか?」

「おそらくいないと思いますよ。もっともいま現在も存在してないんですが」

「わかりました。では、失礼しま〜す」やっとあきらめたようだ。



こういう人間がいると、営業という仕事がいやになると思う。

そして、突然の訪問者に対して俺がどのように対応するかのテストだったとしたら、間違いなく不合格だろう。


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